城西大学附属 城西中学校
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 本校が生まれた1918(大正7)年は、ちょうどデモクラシーの潮流を受け、全国的に見ても時代の転換期であったといえる。各地で「新教育運動」が起こる中、本校は「自由な学校」作りにおける革新的存在であった。「教育の自由と子どもの解放」を唱えた野口援太郎は「池袋児童の村小学校」を設立し、そこで「自由」なカリキュラムを進めた。子どもたちと教師の関係を極めて平等にし、子どもたちは生活にあるすべてのものを学習材にして「生活=学習」の営みを実践した。 城西学園における野口の教育で、「学座教育」と「実科教育」はその特色をよく表すものといえる。 学座教育とは生徒が自ら進んで学び、研究しようとする態度を育成しようというもので、自学自習する時間を1日に2、3時間設定し、「3分を教えて7分を生徒自らに研究させる」という教育法だった。また、実科教育は作業教育、労作教育、活動教育、生活教育などのさまざまな名称で呼ばれ、城西学園においては木工や印刷などを通して行われていた教育である。 こうした試みを通して生徒の自主性を培い、自律的な人間が育つ新しい教育の場を作ろうとする野口の教育方針は、今の城西でもアクティブラーニングあるいはPIL型学習、体験実践学習の重視といった特色として受け継がれている。自由主義教育の伝統実業界の人材を育てる目的で城西実務学校設立。創設者中嶋久萬吉。新井博次初代校長就任野口援太郎「池袋児童の村小学校」を設立城西学園に改称。野口援太郎(2代校長)学園長就任城西学園中学校に改称野口援太郎理事長辞任、横島常三郎理事長就任、十倉精一校長就任(3代校長)、野口援太郎名誉校長就任十倉精一校長辞任、主事の長谷川弥平校長事務取扱に就任横島常三郎校長就任(4代)城西中学校(新制)設置城西高等学校に改称。新制高等学校発足横島常三郎理事長辞任、志津義雄理事長に就任城西中学校を休校とする学校法人 城西学園に組織変更横島常三郎校長逝去、新藤富五郎校長事務取扱に就任新藤富五郎校長就任(5代)志津義雄理事長辞任、大伴好雄理事長代理に就任、大伴好雄理事長代理辞任、浅川寛理事長に就任第一期工事として鉄筋3階建校舎(9教室)完成。浅川寛理事長辞任、新藤富五郎理事長に就任第二期工事として鉄筋4階建校舎(12教室、プール)完成城西レントゲン技術専門学校設立(現・城西放射線技術専門学校)。第三期工事完成、体育館完成水田三喜男、宮田慶三郎らと城西大学設立。副理事長、副校長に新藤富五郎城西歯科大学設立(現・明海大学)第1回「生徒と父母のための音楽鑑賞会」開催(大正7)(大正13)(大正14)(昭和2)(昭和13)(昭和19)(昭和20)(昭和22)(昭和23)(昭和24)(昭和25)(昭和26)(昭和27)(昭和28)(昭和32)(昭和33)(昭和34)(昭和35)(昭和40)(昭和45)(昭和46)(昭和47)(昭和48)(昭和49)(昭和52)(昭和53)(昭和54)(昭和57)(昭和59)(平成3)(平成4)(平成6)(平成11)(平成12)(平成13)(平成17)(平成18)(平成19)(平成22)(平成25)(平成28)(平成30)城西学園史野口援太郎(1868~1941)城西学園中学校第2代校長。福岡県鞍手郡生まれ。小学校教員を経て東京高等師範学校を卒業し、以降さまざまな教育現場で活躍。1923年に下中弥三郎をはじめとする同志とともに「教育の世紀社」を創設し、児童の村小学校および城西学園中学校にて自由主義教育を実践する。

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